2022年1月21日金曜日

クライミング・コミュニティなど存在しない

 There is no such thing as climbing community

と、マーガレット・サッチャーが言ったとか、言わなかったとか。

最近、Giuliiano CameroniのOff the Wagonのロースタートの動画を見た。


この課題は岩の下に置かれたワゴンから登るのでOff the Wagonと名付けられていて、今回はそのワゴンをどけて登っている。ワゴンをどける行為については、どけてももとに戻せるんだから誰にも迷惑をかけていない、だから全然問題ない、ということも言えなくもない。しかし、その行為がカッコいいかどうかという目で見ると、カッコよくはないと言わざるを得ないだろう。なぜならそれはOff the Wagonなんだから。

カッコいいか良くないかなど主観的な判断に過ぎず、そんなものは存在しないという考え方もあるかもしれない。クライミングのスタイルなど理解できない、迷惑をかけない限り何をしても良いのだ、というあれだ。しかし、僕はそれには与しない。クライミングの良し悪しなど存在せず、迷惑をかけなければ良いという考えは、共通の価値と価値をめぐる共通のコミュニケーション手段を持つクライミング・コミュニティなど存在しないと言っているに等しい。そしてそこでは、迷惑をかけないクライミングという世界さえ実現する可能性は低い。

共通の価値と共通のコミュニケーション手段を欠いたとき、何が迷惑であるかについてさえ、そして誰が迷惑をかけているのかについてさえ、合意することは不可能になる。極端な話し、クライミングにおいて最大限に悪い行為とされているチッピングにおいてさえ、チップする者がチップされていない岩を登りたい者に迷惑をかけているのか、チッピングを悪とする者がチップしたい者に迷惑をかけているのか、わからなくなる。チップする者には、自由にチップしたいのにチッピング否定派のせいでやりたいようにチップできない、そんなふうに見えているのかもしれない。種々のクライミングの価値についてコミュニケーションの可能性を否定しておいて、チッピングとか迷惑行為と自分がみなす事柄についてだけ選別的にコミュニケーションが可能である、そして彼らは我々の話を聞いて納得してくれる、なんてことはないのだ。

だから、必要なのは、クライミングの価値についてコミュニケーションが可能であると信じること、そして、クライミングの価値について様々な場でコミュニケーションを行う練習をすることだ。その意味では、「ノーマットなんてありえん!危険だ!」という時々現れる発言も、「そんなわけねーだろ!」と突っ込まれるところまで込みでコミュニケーションの練習としては意味があるのかもしれない。