2024年1月5日金曜日

ブッダという男とチョックストーンと私

 清水俊史『ブッダという男−初期仏典を読みとく』(筑摩書房、2023年)

色んな意味で話題のこの本を読んだ。前半は現代の我々の願望をブッダに投影してはいけないという話がとても面白くて、後半はバラモン教や他の沙門宗教との違いが説明されとても面白い。

 「業法輪廻の苦しみを終わらせるために、インドの諸宗教はそれぞれ独自の思索を重ねた。そのなかでブッダは、原因と結果の連鎖によって個体存在が過去から未来へと輪廻していること、そして輪廻が起こる根本原因が煩悩であることを突き止めた。」(188-189)

「輪廻の苦しみを終わらせるためにには、無知(無明)をはじめとする煩悩を断じなければならないとの主張は、他宗教には見られない。つまり、縁起の逆観こそが、インド史上におけるブッダの創見であると評価できる。」(189)

ブッダは「突き止め」、他の宗教の宇宙観とは異なる仏教の宇宙観を築き上げた。それはわかった。

わからないのは、なぜ他の宗教ではなく仏教の宇宙観が当時のインドで受け入れられたのか。他の宗教の宇宙観も仏教の宇宙観も証明は不可能なのだから、それ自体の説得力の差はないように思える。もしかしたら、この見方がもう現代的な見方で、当時のインドの人たちにとっては説得力に違いがあったのかもしれないが。でもないような気がする。で、もしそれぞれの宇宙観のコンテンツ自体に説得力の差がないのだとしたら、なぜ仏教の宇宙観が受け入れられたのか。すぐに思いつくのは、ブッダが言ったからというものだろう。コンテンツではなくて、それを言った人に説得力があったということ。たとえば、ブッダの実践に説得力があったとか、弁がたったとか、ものすごいイケメンだったとか。

クライミング観は、コンテンツと同じくらい、そのクライマーによる実践が大事、なんてことはあるだろうか?先日のボルダリングでくさのさんと話したんだけど、岩のクリーニングをするときには、このフレークが剥がれると登れなくなるなとか、このフレークがここで割れたら良いホールドになるなとか、こっち向きに割れたら悪過ぎて登れないかもとか、そういうことを考える。そういうことを考えると、無意識にでも自分の都合の良いようにクリーニングをしてしまいかねない。そうすると、岩に自分を合わせるのではなく自分に岩を合わせることになる。そもそもそんなことを考えながらクライミングをしたくない。というわけで、脆いところもそのままに触れないように登ってしまう、極端な話をすると苔も落とさない、という実践をしているのがくさのさんで、そこには独特の説得力がある。が、僕には無理。

ちょっとまえに、発見したクラックを掃除しに行った。このクラックは前傾ワイドで、クラックの中にはチョックストーンが詰まっている。不安定なチョックストーンは危険だから登る前に除去したいんだけど、そのときにも、このチョックは登るのに邪魔だからどけてしまおうとか、これはホールドになるしこれをどけるともう登れなくなるんじゃないかとか、そういうことをどうしても考えてしまう。それがいや。だったら掃除せずにそのまま登ってしまえばいいじゃないかという話なんだけど、不安定なチョックストーンは危険。でも、危険という言い訳を盾に岩を自分に合わせるのもいや。だけどそのまま登る実力はない。という終わりのない問い。


あ、ヒマラヤ登らないけど日本一ヒマラヤ登山を理解している池田常道さんみんたいな例はあるか。


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