2016年7月29日金曜日

クライミングルートは著作物であってはならない

1 はじめに
 ロクスノ72号(2016年夏)において宗宮による「チッピングは犯罪か」と題された小論が掲載され、クライミングルートは著作物であるという主張が展開された。以下では、この主張を「ルート著作物論」という。今回は、このルート著作物論について検討する。

 要旨は以下の通りである。第一に、ルート著作物論とは何かを、上記ロクスノに依拠してまとめる。第二に、ルート著作物論に対する批判を紹介する。ルート著作物論に対してはすでに幾つかの批判が提示されており、ここではそれらの批判を紹介する。第三に、従来の批判とは別の観点からの批判を提示する。

2 ルート著作物論とは何か
 ルート著作物論は、既成のクライミングルートは著作権法により保護される著作物であると主張する。そして、クライミングルートが著作物であるとすると、チッピングは著作者の同一性保持権を侵害するものであり、刑事罰の対象になる。加えて、損害賠償、差止め等の民事的救済も利用可能となる。このように、チッピングに対して法的な制裁と救済を与えることが、ルート著作物論の目論見である。

3 ルート著作物論に対する従来の批判
 ルート著作物論に対しては、すでに幾つかの批判が提示されている。それらはおおまかに、ルート著作物論の実現可能性に関するものと、ルート著作物論の理念に関するものに分けられる。

3.1 ルート著作物論の実現可能性に関する批判
 ルート著作物論の実現可能性に関する批判としては、以下のものがある。第一に、ルートの著作物性を肯定できないというものであり、第二に、著作権侵害に対する救済に実効性がないというものである。
(https://twitter.com/Syumpeter/status/741856642048757761)
(https://twitter.com/sseyou4040/status/720809936859435008)

3.1.1 ルートの著作物性
 著作権の対象は著作物であある。ルートに著作物性を認めることは難しいというのが、大方の反応である。ありのままの岩にルートを設定した場合、岩には何の変化も加えられていないのであるから、著作物性を認めることは難しいという感覚は十分に理解出来る。ただし、奇妙なことではあるが、設定者がチッピングによってホールドを作って完成させたチッピング・ルートは設定者によって創作されたものであり、著作物性を認めることが可能かもしれない。

3.1.2 著作権侵害に対する救済の実効性 
 ルート著作物論が実現すれば、チッピングは犯罪となる。しかし、実際にチッピングに対して被害届を提出したり、告訴したりしても、捜査機関は取り合ってはくれないだろうとの批判がある。その通りであろう。もっとも、ルートが著作物であることが明確になれば、違法性が明らかとなり、捜査機関も対応せざるをえなくなる可能性はある。
 さらに、チッピングは隠れて行われるので発覚する可能性は低く、救済に実効性はないとの指摘もある。

3.2 ルート著作物論の理念に関する批判
 ルート著作物論に対する現在のところ最も包括的な批判は、田渕によるものであろう。
(https://www.facebook.com/notes/田渕-義英/法的責任を考える-チッピングは犯罪かに対する批判/1372519019429960)
 それは、以下の通り、主としてルート著作物論の理念に関する批判である。田渕によると、著作権は財産権であり、ルート著作物論はルートを財と考えるものである。そして、クライミングを財の観点から理解することは、クライミングを市場の土俵に乗せることである。そこでは、クライミングのルートの価値は財として評価される。言い換えると、クライミングのルートはその効用によって測られることになる。

  さて、ここで指摘される「効用」はもちろんutilityであるが、それが誰にとっての効用であるかが問題である。効用が他のクライマーにとっての効用である限りは、つまりクライミングの市場がクライマーのみによって構成されているのであれば、ルート著作物論にもさほど問題はないだろう。なぜなら、ルートの価値が効用によって測られることの意味は、そこでは、ルートの価値が他のクライマーが感じる満足度によって測られるということであり、それはクライマーが望むところであるからである。

 しかし、市場がクライマーのみによって構成されるのでないならば、問題が生じる。クライミングにはすでに多くの企業が参入しており、例えばアディダス社はすでに、少し前であればありふれたことであったトップクライマーと触れ合う機会を特別なものとし、トップクライマーと一般クライマーの距離を遠ざけようとしているように思える。
(https://twitter.com/adidasOTD_jp/status/756421296297091072)。
 効用には、こうした企業の効用も含まれる。ルート著作物論が実現すれば、トップクライマーを支援するスポンサーは、トップクライマーが拓いたルートの著作権を自分のものにし、経済的利益を追求する道具として使うかもしれない。

 なお、田渕は、以上の批判に加えて、2点の批判を行っている。第一は、著作権の保護期間に関するものである。すなわち、著作権には保護期間の制約があり、著作者の死後50年経過すると消滅してしまう。そうすると、ルートの設定者の死後50年が経つと、チッピングが許容されることになってしまう。第二は、排他的使用権に関するものである。すなわち、著作権者には著作物を排他的に使用する権利が与えられており、ルートの設定者が許諾したければ他のクライマーはそのルートを登ることができなくなってしまう。

 このうち前者は、ルート著作物論の実現可能性に関するものといえる。後者は、ルート著作物論が実現された場合の問題点を指摘するものであるが、ここには誤解がある。ルートが著作物であっても、少なくとも公開された岩については、著作権者が他のクライマーが登ることを排除できるわけではない。岩を利用することを許容し・拒絶する権利は、もっぱら岩の所有者に与えられる。この点については、ルート著作物論自体がルートの著作権と岩の所有権の関係を十分に整理できていないことに問題がある。岩にルートが引かれると、所有者さえ岩を改変することができなくなるのだろうか。

3.3 小括
 以上の批判は、二つの方向性に分けて理解すべきである。第一は、ルート著作物論の実現可能性に関するものである。これは、ルートを著作物として保護することは難しいと考えるものであり、暗黙のうちに、ルート著作物論が望ましいことを前提とする。これに対して、第二のルート著作物論の理念に関する田渕の批判は、ルート著作物論の望ましさに関するものである。これは、ルート著作物論は実現されるべきではないと考えるものであり、この立場からは、ルート著作物論の実現可能性はむしろない方が良いことになる。

4 新たな問題
 ここでは、従来の批判とは別の観点からの批判を提示する。

4.1 著作権はいつ成立するか
 仮にルートが著作物だとして、著作権が成立するのはいつだろうか。これには、幾つかの可能性がある。例えばクライマーが岩を発見して、「ここは登れそうだ」と考えた時点で著作権は成立するのか。普通はそうは考えないだろう。では、ボルトルートであれば、ボルトを打った時か。もしそうであれば、クライマーは登れるかどうかわからない岩にも、権利を確保するために我先にとボルトを打つだろう。それがクラックのすぐ脇であっても。

 この問題に対して、多くの人は、「ルートが完成した時」に著作権が成立すると答えるのではないだろうか。それでは、ルートの完成とはどの時点を指すのか。例えば、トップロープで通して登れば完成か。いや、リードに成功して初めて完成だと考える人も多いだろう。では、しばしば見られる「トップロープ課題」は著作物ではないのか。チッピングをしてもいいのか。

 例えば、トラッドルートであれば、レッドポイントに成功した時点なのか、ピンクポイントで良いのか。湯川の白髪鬼の著作権者は、保科雅則さんか、中島徹くんか。

 マルチピッチのルートは、各ピッチをレッドポイントした者に著作権が与えらえるのか。それとも、全ピッチを通して完登した者にすべてのピッチの著作権が与えられるのか。全ピッチを通して完登したと言う時、それはワンプッシュに限定されるのか。

 完登の定義は時代によって変遷している。かつてヨーヨースタイルが主流であった時代に1フォールで登られたルートは、その時点で著作権が成立するのか。それとも、後の時代にレッドポイントした者に著作権が与えられるのか。「その時代に一般的に認められているスタイルで完登した者に権利が与えられる」というのが、多くのクライマーの認めるところではないだろうか。しかし、「一般に認められている」の判断も困難であろう。

4.2 クライミングの価値を国家権力に売り渡す
 このように、具体的なケースにおいて著作権の成立時期や著作権者を判断することは容易なことではない。しかし、ここでは、個別のケースについて権利の成立時期や著作権者の判断に結論を与えることをしたいわけではない。

 これらの個別のケースにおいて著作権の成立時期を決定する権限が裁判所にあることが指摘されなければならない。そして、言うまでもなく、ほとんどの裁判官はクライミングを経験したことはない。ルート著作物論が実現すると、クライミングのクの字も知らない裁判官に、何をもって完登とするかというクライミングの価値の根元に関わる問題についての決定権限を与えることになる。チッピングへの抑止力を得る対価として、クライミングの価値を国家権力に売り渡すことになる。果たしてこれが、クライマーが求めるクライミングの姿だろうか。

 この点は、以下の指摘と軸を一にする。

 
5. まとめ
 以上の通り、ルート著作物論には、種々の批判がある。このうち、ルート著作物論の実現可能性に関する批判は、問題ではない。むしろ、ルート著作物論が万一実現した場合の弊害を指摘する批判が重要である。ルートを著作物と認めることができないことが問題なのではなく、ルートを著作物と認めることが問題なのである。ルート著作物論は、クライミングの価値を市場に売り渡し、国家権力に売り渡すものである。クライミングの価値をクライマーにとどめおくために、ルート著作物論を実現させてはいけない。

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